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広島地方裁判所 平成8年(わ)255号 判決 1997年8月05日

主文

被告人を懲役一年に処する。

未決勾留日数中三〇〇日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、法定の除外事由がないのに、平成八年一月中旬ころから同月三〇日までの間に、広島市安芸区矢野東<地番略>の被告人方において、フェニルメチルアミノプロパンの塩類を含有する覚せい剤結晶粉末約〇・〇三グラムを水に溶かして自己の身体に注射し、もって、覚せい剤を使用したものであるが、被告人は、当時慢性覚せい剤精神病により心神耗弱の状態にあったものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

被告人の判示所為は覚せい剤取締法四一条の三第一項一号、一九条に該当するが、右は心神耗弱者の行為であるから刑法三九条二項、六八条三号により法律上の減軽をなし、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役一年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中三〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項ただし書きにより、被告人に負担させないこととする。

(被告人の責任能力について)

弁護人は、本件当時、被告人は心神耗弱状態であったと主張し、当裁判所も判示のとおりこれを認定したものである。他方、検察官は、(1) 被告人が本件当時幻聴があったとするのは疑問であり、(2) 仮にあったとしても、被告人は、覚せい剤を入手するに至る一連の行動を自らなしており、その障害の程度は極めて軽微であったから、心神耗弱状態とはいえない、(3) 被告人が覚せい剤精神病で心神耗弱の状態にあったとしても、それは被告人自ら平成七年五月以降覚せい剤を使用していたことによるから、原因において自由なる行為に準じ、刑法三九条は適用されるべきではないと主張しているので、当裁判所が前記のとおり判断した理由を補足して説明する。

一  前掲の関係各証拠(なお、ここでは被告人の供述関係は除外する。)によれば、被告人の病歴及び本件に至る経緯につき以下の事実を認めることができる。

1  被告人は、平成元年六月八日から同年八月一九日まで、シンナー依存症の診断により精神病院であるA病院に入院して治療を受けた。シンナー吸引中に幻覚などの病的体験があった。

2  次いで、平成四年一一月二八日から翌五年三月二四日まで精神病質の診断のもとに同病院に再び入院して治療を受けた。きっかけは母親への暴力で、精神鑑定に付されたことによる。なお、担当医師の乙川一男(以下「乙川医師」という。)は、被告人が一八歳のころから覚せい剤の乱用を始め、右入院当時は判明しなかったが、当時の病状に覚せい剤の関与があったと思われるとしている。(なお、被告人は覚せい剤を始めた時期につき、警察官に対しては平成七年三月初めころ、検察官に対してと公判廷においては平成六年一一月ころからと供述している。)

3  平成六年一一月、被告人は傷害、恐喝未遂事件を敢行し、その後起訴された。平成七年三月に保釈で拘置所を出た後、覚せい剤を乱用して妄想が出、内妻に暴力を振るい、同月二六日覚せい剤精神病の診断で任意入院し、途中で医療保護入院となり、右事件の判決宣告日である同年五月二二日に退院した(第三回入院)。

4  右退院時の状況は、易刺激的で、ささいなことで他の患者とけんかになったりしたが、医師や看護者には従順であった。覚せい剤による急性の幻覚妄想に左右された興奮はみられなくなっていた。軽快はしたが治癒(寛解)には至っていなかったところ、本人と友人及び母(保護義務者)の意向で退院した。

5  その後平成八年二月に至るまで受診・投薬はない。

退院後内妻及び子と同居したが、やがて内妻に暴力を振るい、同年夏ころには内妻は被告人と別居した。

6  平成七年一一月三〇日ころに被告人は、住み込みで働いていた勤務先を、欠勤が多いとの理由で辞めさせられ、母の住む実家に帰った。被告人は、部屋に目張りをしたり、母に対し物を投げたり、家財を壊したり暴力をはたらき、同年一二月七日ころには母は耐えられずに家を出、警察やA病院の乙川医師に、被告人の措置について相談を重ねた。

7  平成八年一月一日に被告人は弟に暴力を振るい、母が警察に申告して、同月三〇日右暴行の事実で逮捕された。

8  右逮捕後、挙動不審、左腕関節部内側に多数の注射痕が存在することなどから、捜索差押許可状により尿を採取されて鑑定に付され、覚せい剤の使用が発覚した。なお、逮捕後の二月一日当時の被告人方の内部は、破壊された家財道具等が散乱し、その中に注射器一本、小分け用具二本、空パケ大小各一袋がティッシュペーパーの下に隠され、これとは別に注射器一本、はさみ、水容器のキャップが枕元に、また別に注射筒二本、ケース入り注射針一本が茶封筒に入った物が存在し、ゴミ袋内から空パケ一袋が発見された。

同年二月一〇日、被告人は本件の覚せい剤使用事実で逮捕され、次いで勾留された。

9  同月二二日、乙川医師による精神鑑定がなされ、覚せい剤精神病で措置入院となり、以後退院する同年五月八日まで勾留執行停止となった(第四回入院)。

10  同月一五日本件により起訴され勾留中であるが、拘置所内でも幻覚、幻聴の訴えをし、継続的に投薬治療を受けている。

以上の事実からすると、被告人は本件前に覚せい剤精神病の診断で入院治療を受け、軽快状態で退院したが、以後治療を受けないまま、遅くとも内妻と別居した平成七年夏ころから行動に変調を来し、同年一二月ころから翌八年一月ころは粗暴で家族の手に負えない状態となっており、本件覚せい剤使用後再び覚せい剤精神病で異常な状態となっていたことが認められる。

二  被告人の供述関係証拠によれば、本件犯行の態様はほぼ次のとおりである。

平成六年一一月ころから覚せい剤を使用し、平成七年五月ころ暴力団を辞めるまでに何回か覚せい剤を使用した。

同年夏くらいから継続的に幻聴があり、不眠状態であった。

(被告人は、第一回公判では、退院して三か月後に幻聴が出現したと供述しているが、第六回では退院時二〇日分貰った薬がなくなってすぐ不眠、不安定になった、第一〇回では、退院時貰った薬がなくなって一、二週間後から幻覚幻聴が出たと供述して、その時期に相異がある。)

別居した内妻が子供に会わせてくれなかったが、「子供に会える、子供に会えないのはお前がまともでないから」との女性の声の幻聴があった。まともになったら子供に会わせてくれると思い、まともになるために覚せい剤を打ってすっきりしようと思った。

平成八年一月二〇日過ぎころ、覚えていた(捜査段階では平成六年一一月以来のようにいうが、第六回公判では、A病院第三回入院中、入院患者から聞いたと言う。)電話番号(×××-△△△△)に電話をして、夜と思うが一万五千円持って、矢野駅から電車に乗って買いに行き、広島駅裏のせとうち苑前で待ち合わせ、乗用車で来た密売人からビニール袋入りの覚せい剤一袋と注射器を一個購入した。自宅に帰って五、六時間置きに三回覚せい剤を注射して使用した。注射後はいずれも体が軽くなり、気分がすかっとして、覚せい剤を打ったことが分かった。覚せい剤を打っても幻聴が消えなかったので、残りの覚せい剤は家のゴミ箱に捨てた。平成七年五月の退院以来本件が初めての使用である。

なお、被告人は、逮捕当初は本件を身に覚えがないとして否認し、前記措置入院による退院後の五月九日に至って自白したが、捜査段階、公判と一貫して、幻聴があったから覚せい剤を使用した、幻聴や妄想のため罪の意識がなかった旨供述している。

三  次に、鑑定人久郷敏明(以下「久郷鑑定人」という。)作成の鑑定書及び同人の公判供述によれば、被告人の精神異常の有無及びその原因に関する精神鑑定の結果は以下のとおりである。

1  被告人には、平成八年一月ころ幻聴を中心とする精神病様症状があった。その原因は覚せい剤の使用であり、病名は慢性覚せい剤精神病である。

本件鑑定時である平成九年二月の時点でも被告人には幻覚症状が存在した。被告人は幻覚症状が発現しやすい特異な体質の持ち主であり、そのため被告人の幻覚症状は例外的に遷延性の経過をたどっている。

2  被告人の幻覚症状が詐病でないことは、次のことからいえる。

被告人における精神症状の発現は、本件犯行より数年以上先行しており、犯行前から精神病を偽るという形の詐病は常識的に考え難い。本件犯行前の被告人には、明らかなシュナイダーの第一級症状(問答式の幻聴、自己の行為を注釈する声の幻聴、自己の考える内容が声となる幻聴)が認められた。このような症状は、通常の一般人が認識しているはずのない症状である。

本件後すなわち第四回入院による治療後の幻聴に関しては、その後の勾留中に拘置所において精神医学的な薬物治療を必要としており、とりわけ、平成八年七月一〇日の拘置所回答では、投薬により幻聴の訴えはなくなったとなっているのに、同年一一月一九日の同回答では、投薬により幻覚症状などは軽快しているとされ、さらに向精神病薬の投与量が増量されている。しかも一種の向精神病薬(コントミン)の一日の投与量は常用量のうちではやや大量に属する。これは、覚せい剤の使用は一切ないにもかかわらず被告人の精神病状態が再度悪化し、医師によって向精神病薬の増量の必要性が認められたことを示す。

3  本件犯行当時被告人には、高度の幻覚症状があり、混乱錯乱状態に陥り、その困難な状況から逃れる手段として、従来から経験のある覚せい剤の使用を思いつくことは容易に想像できる。この意味で、被告人の当時の精神異常は本件覚せい剤使用にかなり強い促進的な役割を果たしていた。被告人に当時幻覚がなかったならば本件覚せい剤使用はなかったといえる。

したがって、本件犯行当時被告人は、是非善悪の弁別能力は有していたが、これに従って行動する能力は一定程度に障害されていたといえる。

四  二で見た被告人の供述には、矛盾点や不合理といわなければならない点もあるが、一での事実関係及び三の鑑定結果からすると、幻覚幻聴の訴えに関しては、詐病の疑いは消極的に解さなければならない。

そして、本件犯行に至る事実関係について、被告人の供述する被告人自身の行動は覚せい剤入手のための目的に叶う合理的なものであり、久郷鑑定人の公判供述によれば、覚せい剤精神病においては人格の大部分は健常に維持されていることが認められる。

しかし被告人においては、幻覚による異常心理下で、被告人の行動決定の自由は既に覚せい剤入手・使用に関しては著しく狭窄して阻害され、これを阻止する反対動機を形成することができず、抑止行動に出ることができなかったとみる余地がある。前記三3はこのように説明できる。そうすると検察官が主張する(1)、(2)には与することができず、被告人は本件当時覚せい剤精神病による幻覚幻聴の作用により是非善悪の弁識に従って行動する能力を相当程度に阻害されて減弱していた疑いがある。そうすると、これを否定するに足りる他の証拠のない本件においては、被告人は本件犯行当時心神耗弱の状態にあったと認められる。

五  そこで、検察官の主張(3)(被告人が当時覚せい剤精神病で心神耗弱の状態にあったとしても、それは被告人が平成七年五月以降も覚せい剤を使用していたことによるから、原因において自由なる行為の法理に準じ、刑法三九条の適用はない)を検討する。

前記一の認定事実、就中2以下の事実に加え、更に次のような事情も認められる。

丙村花子の前掲供述調書謄本及び同人の前掲公判供述によると、平成七年一一月三〇日に帰宅後、被告人が「注射器をどこへ隠したんか」等と言うので、母が「お前はまだやっているのか」と覚せい剤をしているのかとの趣旨で尋ねると、被告人は、「大きな声で言うな」などと言ったこと、この間母としては被告人の前記異常行動は覚せい剤使用のためと思っていたことが認められる。そして、第四回入院当日の乙川医師の記載したカルテには、「七年一〇月ころより乱用を始めたら幻聴が始まった」(弁護人請求の証拠番号8)「七年一一月三〇日にパチンコ屋をクビになり、実家に帰り、夜外出して昼間寝るような生活で、乱用を続けていた」(同1)との記載がある。

また、乙川医師及び久郷鑑定人の各公判供述並びに右鑑定書によれば、被告人のような症状において、幻覚幻聴の出現に影響を及ぼす要因は覚せい剤の乱用再開の可能性が一番大きいというのである。

これらからすると、被告人が本件直前に覚せい剤を使用した可能性はないとはいえない。

しかし、原因において自由なる行為の法理の準用は、あくまでもその原因行為時に完全な責任能力を有していることが前提の理論であるところ、被告人においては、覚せい剤の使用再開に至った時期が明らかでなく、原因時の責任能力の有無を確定することができない。前記一の5により、覚せい剤乱用再開時期を被告人の異常行動の開始時である遅くとも平成七年夏ころと推測するとしても、平成八年一月である本件犯行時までには相当の期間があるから、その再開により新たな覚せい剤精神病が形成された可能性もあり、本件犯行をその平成七年夏ころ以前の完全責任能力時の犯意の実現とみるには常識的に無理がある。なによりも、乙川医師及び久郷鑑定人の各公判供述並びに右鑑定書によれば、第三回入院の退院当時被告人の覚せい剤精神病は治癒しておらず、投薬治療を必要としていたところ、被告人に関しては治療は行われなかったこと、本件犯行当時被告人に存在した幻覚症状の発現要因は、右退院後薬が切れてしばらくしてから幻覚が現れたとの被告人の供述を前提とすると、治療中断による再発の可能性が高いとして、覚せい剤精神病の薬物治療の中断を原因とする可能性も優に肯定されていることからすると、覚せい剤使用の再開とは別に、慢性的な覚せい剤精神病の症状として幻覚症状が出現し、被告人の異常行動の原因となった可能性も否定できない。

そうすると、原因行為時の完全責任能力の存在は、検察官の立証責任に属するところ、本件においてはこれが果たされていないので、原因において自由なる行為の法理を準用すべき場合に当たらない。したがって、検察官の右主張は採用できない。

よって、心神耗弱を認定した次第である。

(量刑の事情)

本件は、覚せい剤の自己使用の事案である。右に述べたとおり、被告人は、従前の覚せい剤使用により覚せい剤精神病となって入院治療を受けた後、投薬治療を十分に行わず、再発した覚せい剤精神病が作用した結果本件に至ったというものである。被告人は、平成七年五月二二日に傷害、恐喝未遂事件で執行猶予付きの有罪判決を受けており、本件は執行猶予中の犯行である。この経緯は、被告人の覚せい剤に対する親和性が強いこととともに、覚せい剤の影響の重大さを改めて示すものである。覚せい剤にまつわる犯罪の増加、凶悪化などを考慮すると、一般予防の見地からも被告人に対しては厳重な処罰が必要である。このようにみると、本件は到底再度の執行猶予に付すべき事案とはいえない。

しかしながら本件は前記のとおり、被告人が心神耗弱の状態で行われたものであること、現在において、被告人は、本件犯行を認め、今後覚せい剤との関わりを絶つことを改めて誓約し、暴力団組員であった養父と離縁したこと、母において、今後の厳重なる監督を約していること及び前記執行猶予が取り消されその刑にも服さなければならないであろうことも十分斟酌して、主文の刑を決定した。

(求刑 懲役一年六月)

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官 池本壽美子)

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